私の死生観 ・・命のリレー・・


 (改訂版)                    平成299月16日

                              横井 寛
 今年もはや2/3が過ぎた。このところ月日が経つのがやたらと速い。考えて見れば、私は数え歳で米寿であった。父は米寿を目前にして他界したので、今までに横井家の男性では、私が初めて米寿を迎えていたことになる。


さて、米寿ともなれば、最近、体力も気力も急速に低下してきて、寝たり起きたり、という日が多くなった。数年前に患った帯状疱疹の後遺症である神経痛で今も悩まされており、ベッドの中で横になっていると、その痛みが軽減されるのである。ベッドの中で、昔のことや人生というものを色々とを考えてみた。人間は死ねばどうあるのか?


私の母などは寝たきりとなり、94歳で死期が近づいたころ、あの世というもの信じていたようで、余り死を恐れる様子はなく、夫や妹にまた会えるのを楽しみにしていたと思われるようなところがあった。特攻隊の生残りであった兄もあの世を信じていたようであり、彼らは本当に幸せな人たちであったと思われる。

 私は、父と同じく、いわゆる敬神崇祖、そして森羅万象に神が宿ると考える古典的な日本人であるが、神仏は敬いこそすれ、頼りにはしないという思想の持ち主である。

 最近は天文学の研究が進み、色々なことが分かってきた。この不思議な宇宙、そこに存在する地球の素晴らしさ、さらに不思議なのは、地球に存在する人間が現在の宇宙発生の起源まで推測できるようになったことである。これらの宇宙や自然、そしてそこに住む生物は、神か仏がお作りになったとしか考えられないと私も思う。

世の中には昔から色々な宗教があり、その殆どがあの世というものを認めていて、死後は天国とか極楽、或いは地獄へ行くとしている。一神教の人たちは他の宗教は全て邪教であるとして排斥しているので、この世で例え親友であったとしても、キリスト教徒と仏教徒ではあの世が別なので、会うことが出来なくなるのであろうか?

それに、あの世へ行く年齢は死んだ時のものか?それとも任意の年齢でよいのか?もしも死んだ時の年齢であるとすれば。あの世は殆ど老人ばかりの世界で活気がない。それに最近のように医学が発達して長寿命になっていることを考えれば、我々よりもご先祖様の方が若いということになる。それに痴呆症やアルツハイマーの人は気の毒である。

 霊魂の世界には時間とか空間というものがなく、何時でも自分の好きな年齢に戻れるし、何時でも誰にでも会えるという説もある。これは便利であるが、生前における魂の成長や変遷を考えると、死後の世界ではこれも止まってしまっているのか? そうだとすると誠に退屈な世界である。

そもそも霊魂の世界では体というものがないので病気になることもなく、拘りも無ければ、体での欲望、つまり食欲とか性欲もないと言われている。つまりここでは、プラットニックラブだけが存在するのか?
それに子供は何時までも子供のままということになる。

生れ変わるという思想もあるが、それでは、地球上の人口に変化がないことになり、また、遺伝子の関係とも絡んで、最近ではあまり説得力が無くなった。

昔は、さまよえる霊魂が今生に影響を及ぼすという思想もあった。怨霊や幽霊がその例である。日本では怨霊が祟りをなすというので、平将門や菅原道真、崇徳上皇のように神として祭り、崇め崇拝することによって社の中に封じ込めたこともあった。しかし菅原道真の場合には、その雷神がいつのまにか変身して天神様となり、学問の神様になったのは面白い。

日本では死者に鞭打つようなことはしない、いずれも神か仏として崇めるのであるが、中国や韓国などでは死者の墓を暴いて、遺体を切り刻むとか、死後何百年も経った人の銅像を鞭で打つという習慣がある。これが靖国問題などで中国人や韓国人が日本人と意見を異にする原因にもなっているように思われる。

この中で怨霊は一般に上層階級の人で、幽霊は庶民的であるというのも面白い、そしてまた幽霊はなぜ女ばかりなのであろうか?
 あの世の天国とか極楽は、それぞれの宗教を信じる人にとっては,誠に理想的な世界であると.述べられており、彼らにとっては死を恐れることが無くなるので、それはそれで、幸せで、良いことであると私は思う。

しかし、一方、仏教においてでも、あの世を語るのではなく、昭和の傑僧と言われた沢木興道老師は「仏とは自分自身のことである、自分自身が仏になるより他に仏というものはない」と述べている。つまり、人生において悟りを開く、つまり「何事にもこだわらない」ように修行する事が仏への道であるとしている。

仏典の中でも、その神髄とされる「般若心教」には「あの世」への言及はなく、ただ「空」の世界を示し、これを悟るように説いている。
あの世の設定が無ければ宗教ではないという人もいるが、これこそ釈尊の説いた本当の仏教ではないかと私は考える。

 私は「こだわりのない人生を目指す」とともに、私たちがこの世に生まれてきたことの意義を、次のように.考えるのだが・・・如何であろうか?

 コンピュータから来た言葉にソフトウエアとハードウエアという言葉がある。私たちの体は時には熱き柔肌などともいわれるが、今のコンピュータ用語で言えばハードウエアということになる。私たちの体は両親が居られたからこそこの世に生を受けたのであり、その両親もまたそれぞれの両親が居たからこそ生まれてきたのである。これは人類、いや生物発生の起源にまで遡って順々に影響を受けてきたわけである。もしもご先祖様の一人が別人であったとしたら我々は同じ姿でこの世に存在することはなかったのである。我々の遺伝子も、その子孫が存在する限り、形を変えながらも連綿として受け継がれていくであろう。

 一方、ソフトウエア、つまり、知識とか物の考え方といったもの(これが霊魂)は両親や親戚の方々からは勿論のこと、学校の先生や先輩、友人、さらに歴史上の人物までを含めて、実にいろいろな人たちから影響を受けて今日の我々が形成されたのであって、もしも先生の一人が、あるいは友人の一人が別人であったとしたら、我々は全く別の人生を歩んでいたかも知れないのである。我々は日々、多くの人の影響を受けながら、また人に影響を与えながら生きている。

 つまり、この世に私がいたということは、私の発明や著作を通じて、また、教え子とか友人たちと接することによって、何がしかの影響を与えてきたわけであり、その教え子や友人たちもまた誰かにその影響を与えている筈である、その様に考えると我々のソフトウエア、つまり霊魂は次々と次の世代へ引き継がれていって、これも永久に絶えることがない。つまり我々の体や精神は形を変えながらも連綿としていつまでも続いていくものと考えられる。これは、命のリレーとでもいうべきものであろうか。

 なお、人の死後、仏教ではいろいろな法事がある。また、最近では葬式とは別に故人を偲ぶ会というも開かれるようになった。これらは故人に関係の深い人々の心の中に故人の面影が生きているということであり、大変良いことであると思う。

神社やお寺にお参りすることも、神社、仏閣を通して夫々の心の中にある神や仏に語りかけることであり,大変良いことであると私は思う。
 これが、私の人生観であり死生観でもある。