映画「硫黄島からの手紙」をみて

                
 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」は内容的に素晴らしいと好評である。それは一般のアメリガ人は、自国の正義を深く信ずるが故に、敵を邪悪と決め付けがちであるが、この映画では米兵が日本人捕虜を殺す場面なども描くとともに、自他を相対化しようとしてか、敵への尊敬すら滲ませているところに新鮮味がある。

西中佐の濠で米兵捕虜を優しく扱う場面や、息絶えた彼が持っていた母親からの手紙に、日本兵の母親からと同じく、無事で生きて帰って欲しいとの切なる願いが記されていたという話など、激戦の島で殺しあう敵と味方は、それぞれが祖国のために戦いながらも、実は愛と哀しみをたたえた人間性において対等、共通であったとする、このごく当たり前のことがこの映画に輝きをもたらしているように思われる。

硫黄島(いおうとう)はサイパン島から日本本土へ空爆を行う場合の中継地点として、戦略上きわめて重要な島であった。栗林中将が硫黄島に赴任したのは1944年の6月であったが、彼は間もなく島民の全てを本土へ強制疎開させるとともに、全島を要塞化するための地下壕建設という持久戦の作戦に取り組んだ。これはパラオ諸島におけるペリリュウ島での戦訓を生かしたものであったとされている。

制空権、制海権をともに無くした日本軍の守備隊、約2万1千人が守る小さな島へ、米軍は戦艦6隻を含む100隻以上の艦船で島を包囲し、猛烈な空爆と艦砲射撃を行い、約7万人を上陸させてきたのである。
米軍海兵隊の上陸は1945年の219日で、当初は硫黄島を5日間で占領すると宣言していた米軍であったが、その戦いは36日も続けられた。

栗林中将はその部下に死に急ぐことを許さず、徹底抗戦、とことん生き抜いて、一日でもここを長く守る苦しい戦いを命じたのである。智、情、勇ともに優れた名将の下、悪条件の中において、日本軍は実によく戦い、敵に多大の損害を与えた。この戦いで、日本側は全軍の95%、約2万人が戦死したが、米軍の死傷者数はそれを上回る28千人であった。

この硫黄島における日本軍の戦いぶりは、米軍の心胆を寒からしめるとともに、彼らに畏敬の念さえ抱かせたといわれる。

この映画もその戦争の有様についての表現はまあまあであったと思われるが、この映画を史実として捉える場合には、幾つかの問題点というか誤りも見られる。防衛大学校では毎年、12月に三年生の硫黄島訓練(一泊二日)があり、私も現役時代にその視察で硫黄島へ行った事があるが、そのときの見聞と体験、ならびに私の少年時代における記憶などを踏まえ、この映画の中で明らかに間違っていると思われる点をここに列挙して、諸兄のご参考に供することとしたい。

映画における問題点

1)壕を掘る兵士の服装
  映画では一般の軍服で濠を掘っていたが、これは想像であろう。硫黄島は亜熱帯に属し、とても暑いところである。私が調べたところ、壕を掘る兵士たちは褌一つで作業をしたと伝えられるが、5~10分で交代せざるを得ないほどであったという。

 そしていよいよ戦闘が開始されたとき、兵士たちは濠を掘るより戦う方がよほど楽であると喜んだとか。わが方は昼間、濠に潜んでいて米軍の激しい攻撃にじっと耐え、主として夜になってから空襲や艦砲射撃の合間に、濠から這い出して戦ったという。

 私がかの地を訪れたのは、12月も半ばを過ぎていたころであったが、壕(千田濠)の中を見学するとき、下着(肌着)だけで入るように勧められ、10~20分位で外に出てきたのだが・・肌着のシャツは汗でびしょ濡れとなっていて、それを絞ったのを思い出す。

2)将軍の服装
 映画では栗林中将が最初に飛行機で硫黄島に降り立った時と、それから暫くの間も、胸に略綬のみか、本物の勲章までつけていたのが気になった。戦場へ赴くのに勲章までつけてというのは如何なものか?それに彼は司令官であるのに参謀懸章まで付けていた。偉く見せたかったのかも知れないが、この服装は何れも誤りであることを指摘しておきたい。

3)壕の風景
映画に出てくる濠は大きな洞窟のようであったが、硫黄島にあのように大きな洞窟はない。実際の硫黄島の濠は想像していたよりも狭かった。その通路は人間がやっと通れるくらいの幅であり、ところどころに空気の取り入れ口や広い溜まり場が設けられており、そのような濠が縦横斜め、お互いに連絡できるよう、随分と沢山作られていたのだという。其れが爆弾で遮断されたり、多くの兵が生き埋めになったりした。火炎放射器で焼かれもした。それでも兵たちは勇敢に戦ったのである。

4)階級章
  陸軍の二等兵は赤地に星一つ、一等兵は星2つで、上等兵は星3つ、そして下士官は其れに金筋が一本、尉官は金筋が3本となり、星ひとつが少尉、2つが中尉、3つが大尉、佐官となれば金筋が4本,将官はベタ金。そこまでは良いのだが、映画では、星2つの一等兵とか、中佐、中将の2つの星の位置が日本陸軍のそれとは異なっていた。2等兵の星の位置が上等兵の外側の星を一つ取り覗いた残りの位置の星2つとなっていた。正確には星2つが赤地のほぼ中央に配置されなければならないのである。映画に出てくる栗林中将や西中佐の階級章もこれと同じ誤りを犯していた。

5)敬礼
 映画に出てくる栗林中将や西中佐の敬礼は旧陸軍の其れであったが、副官その他には米国式の敬礼が見られた。現在の自衛隊や警察官の敬礼が戦後、米国式に改められたこともあるが・・、戦争映画などでは当時、行われていた本当の敬礼をして欲しいものである。 映画「男たちの大和」でもこの敬礼が日本海軍のものではなくてアメリカ式であったのが気にかかった。

6)硫黄島の水
 映画の中でお腹を壊した兵士に「貴様には硫黄島の水が合わないのかなあ・・」と仲間が語りかける場面があったが、硫黄島での飲料水は全てが天水、つまり雨水であることを強調すべきであった。
井戸水は硫黄混じりの塩水で飲むことは出来ない。壕の外の水桶は爆撃によって全てが破壊されている中で、ほんの僅かな水も兵たちにとっては如何に貴重であったことか!
硫黄島への墓参では本土の水を必ず持参することとなっている。

7)西竹一中佐の乗馬姿はフィクションであろう
 西中佐は昭和7年オリンピックの乗馬競技における優勝者であるが、硫黄島へは戦車隊長として赴任していた。当時の硫黄島で馬に乗っていたとは考えられない。 

8)手榴弾による自殺の方法
 映画では手榴弾の信管を点火させ、立ったままで自殺するのが見られたが、これは可笑しい。手榴弾による正しい自殺の方法は、信管に点火させた手榴弾を胸に当てて伏せるのである。

9)西中佐が「ライフルを・・」と言うところがあるが、これは「銃を・・」でなければならない。当時、三八式の歩兵銃をライフルと言う日本人はいなかった。

10)憲兵
憲兵は軍の中における警察であり、当時の憲兵が民間に出てきて一般の人と接触するようなことは殆んどなかった。パン屋が祭日に国旗を掲げていなかったからとかで怒鳴り込むなど、全く笑止千万な作り話である。民間を担当する警察でも当時、そのようなことはしなかった。

 まして、憲兵に犬が吠えたから「公務執行妨害」といって、その犬を射殺するなど、全くありえない話である。それに当時はかなりの食糧難で、どの家でも犬など飼えるようなゆとりはなかったと記憶している。更に、最初、犬の射殺を実行しなかった憲兵の部下を路上で殴るけるの暴行を加えるところもあるが、これも現実とかけ離れすぎている。そもそも当時の日本には、人間を足蹴りにするという習慣はなかったと筆者は記憶している。

11)何とかいう中尉が部下を切ろうとした場面があったが、当時の常識としても考えられない。
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私より若い人たちはこの映画を見ても全く矛盾を感じないようであるが、それも戦後教育のせいであろうか?戦争中の日本軍を出来るだけいやらしく、さも残酷な人間達の集団であったかのように描くのは、戦勝国側のみならず、戦後の日本人の風潮のようであるが、戦争の歴史も出来るだけ本当にあったことを忠実に伝えたいものである。

 (現在、ほぼ七十歳以上の人なら誰でも歌ったことのある「愛馬行進曲」の歌詞は陸軍省によって昭和13年に公募されたものであるが、栗林中将は騎兵の出身であり、当時、陸軍省の課長でその選定に当たられ、その歌詞の一部を添削して『とった手綱に血が通う』とされたと聞いている)


            (20073月)